■山犬・狼の石像について

 現在、神社の入口に控えている石造りの像は、狛犬と呼びならわされています。狛犬の姿は、一般的な獅子型のものをはじめ、お稲荷さんの狐型、山犬型、その他その神社の眷属とされる実在の動物や、もしくは想像上の動物の像があります。これらの様々な動物の像は、総称して「狛犬(高麗犬)」と呼ばれています。

 狛犬の起源は、遠くインドまで遡ると言われています。インドでは、仏像などの守護のため、魔除けの獅子像を置く習慣があり、この守護像が仏教の伝来とともに日本に伝えられたと言われています。中国や韓半島では、今でも石造りの獅子像を廟やお屋敷の入口両脇に魔除けとして置く風習が残っています。しかしこれらの像は獅子像であり、魔除けの像を狛犬(高麗犬)と呼ぶのは日本だけです。



 なぜ魔除けの像を狛犬(高麗犬)と呼ぶようになったのか詳らかではありませんが、一説によりますと韓半島を経由して朝廷に献上された外来の犬、狆(チン)が起源であるという説があります。『日本書紀』(720年)にある天武天皇(672年)の章に、新羅からさまざまな動物が献上されたという記述があり、その動物のなかに「高麗犬」という記述が見られます。これが史上最初に「高麗犬」という言葉が、文献に使われた例とされ、「渡来した小型の犬は、顔は平たく、こっけいな犬」という描写から、高麗犬とは狆(チン)を指しているのだと言われています。

 普通の和犬は口吻が長く尖っているのに対して、鼻の低い犬、狆(チン)は宮廷内でも珍重され愛玩されたと言われています。やがて、宮廷の御簾のはじを押さえる重し、鎮子(ちんず)が、この狆の姿を模して作られるようになり、「鎮子(ちんず)の犬」が縮まって「狆(チン)」という呼び名になったとされます。またお寺の堂内に安置されている魔除けの獅子像が、姿が似ているために「高麗犬の鎮子」と混同され、狛犬(高麗犬)という呼び名が定着したとされています。

 狛犬(高麗犬)イコール狆(チン)とする説はあくまでも仮説ですが、魔除けの獅子像と狛犬(高麗犬)という呼び名が結びついた理由を説明するものは、他にはないようです。現在では、神社の入口に鎮座する像の、頭に小さな角のあるものを「狛犬」、角のないものを「獅子」と呼び、二匹ペアの状態を「狛犬」と呼ぶそうです。


 こうした獅子型の狛犬の他に、古くから「眷属」の像が神社に奉納されることがありました。眷属とは、神様のお使いとされる動物のことで、稲荷神社の狐、日枝神社の猿、天満宮の牛などが有名です。現在でも稲荷神社に狐の像が鎮座していることはよく知られています。こうした眷属の像が作られはじめたのがいつ頃なのかは不明です。狼や山犬を眷属とする神社には木像の狼や山犬が奉納されている例が見られます。現存している神社の山犬型木像のいくつかは、鎌倉時代の作と伝えられていますが、それ以前のことはよく分かっておりません。

 年代がはっきりしている例に、藤四郎の奉納した陶器の山犬像があります。藤四郎は加藤四郎左衛門景正、鎌倉時代に日本で初めて陶器の製造に成功した人物であり、瀬戸陶業の始祖と言われています。地元である愛知県瀬戸市の深川神社には、藤四郎奉納の陶製の山犬像(国宝)が伝わっています。この像は口先の尖った山犬の姿をしておりますが、「陶製狛犬」と呼び習わされています。藤四郎の陶製狛犬の奉納がきっかけで、その後には陶製の狛犬を神社に奉納することが流行しました。陶製狛犬は、瀬戸市のある愛知県から岐阜県方面にかけて多く現存していますが、遠く鹿島神宮や香取神宮、茨城県ひたちなか市の八幡宮にももたらされました。陶器が貴重品とされた時代、こうした陶製狛犬は神様への奉納品として珍重されたのでしょう。

 陶製狛犬は鎌倉時代から室町時代終わりにかけて盛んに作られました。鎌倉時代に作られたものは、藤四郎の山犬像と同様に、鼻先の長い山犬型でしたが、時代が下ると共に鼻先が短くなり獅子像に近い姿になってゆきました。陶製狛犬の場合には、山犬型の像が古形であり、獅子型の像は比較的新しいものとされています。神社が寺院と分離されたのは、明治時代の神仏分離令以後のことで、それ以前には神社と寺院がいっしょだった時代が長く続きました。長い時間の流れと共に、神様の眷属の像と仏像の供としてもたらされた魔除けの獅子像(狛犬)とが、混同されるようになったのでしょう。


 こうした木像狛犬や陶製狛犬は、拝殿やお堂の中など屋内に安置されるために作られたものでした。屋外に鎮座する石造りの狛犬が作られるようになったのは、江戸時代に入ってからとされています。最も古い形の石造り狛犬は、岐阜県の飛騨地方に残っています。古形の石造り狛犬は、子犬を思わせるコロコロとした小さな山犬型をしており、拝殿内に安置されたものと屋外に鎮座したものがあります。おそらく、高価な陶製狛犬を奉納できない庶民が石造りの狛犬を奉納したのではないでしょうか?狛犬が石造りになって戸外に置くことができるようになり、神社の入口に鎮座することになったのでしょう。

 江戸時代に庶民文化がぼっ興すると、財力を貯えた豪農や豪商が、信仰する神社に狛犬を奉納するようになります。稲荷神社など、眷属のはっきりした神社には眷属の姿を模した像を奉納しましたが、そうでない神社には仏像に準じた獅子型の狛犬を奉納するようになり、この獅子型の狛犬が神社の狛犬として定着したものと思われます。こうした神社は江戸期以降に庶民の信仰を集めた神社に多いといわれ、伊勢神宮など古くからある神社では戸外に狛犬を置いていない例が多く見られます。

 秩父には古来、三峯神社をはじめとして狼を眷属とした神社が多く、狼を派遣して害獣を除くとして農民の信仰を集めました。近世の江戸時代には、火伏せの神として知られるようになり、大火に悩まされた江戸の庶民の信仰を集めました。このため、江戸時代からこれら秩父の狼神社には、江戸っ子や地元の農民が狼の狛犬を奉納するようになり、現在でも多くの狼の石像を見ることができます。